役に立つの押し売り〜子どもは大人の所有物ではない〜

 

「将来役に立つように習い事をさせよう。」

とか

「どうせ読むなら役に立つものを。」

数年前までは思っていました。

 

習い事はさせていなかったのですが

(本人からやりたいという申し出もなし)

例えば本を買うなら漫画で歴史が学べる本とか

かるたを買うならことわざのかるたとか

買ってみたりしてたわけです。

 

しかし

 

気付きました。

 

これは「役に立つことの押し売り」

なのではないかと。

 

もちろん人は生きていくうえで

誰かの役に立つことが

生きがいになることは確かです。

 

では役に立つことはそんなに大切なことなのか

逆に言えば、

役に立たないことは無意味なことなのか。

 

子どもの世界をのぞき見していると

役に立つ、役に立たないをわけずに

様々なことに興味を示し、

いろんなことを吸収しています。

 

沢庵禅師の言葉に以下のような言葉があります。

 

無心の心を以て構ふべし

無心こそ万機に応ずる構えなり

 

子どもは無心だからこそ適応性が高くなるのです。

 

そんな子ども時代を生きている渦中の人から

役に立つ、立たないで分類して

大人側の考えを押し付けていいのでしょうか。

興味があるない、必要不必要を取捨選択するのは

子ども自身なのではないだろうか。

 

もちろん

膨大な情報量から

範囲を狭めてあげる必要はあるかもしれません。

(例えば図書館でここからここらへんのコーナーなら読みやすいよとか)

けれども今から身につけていこうとしている事柄を

先取りして教えることが

決してプラスになるのだろうかということです。

 

例えばひらがなや英語などです。

読みたいと思えば

理解したいと思えば

自然と意欲がわき、

そこにむかって動き

自然と覚えていくはずです。

 

我が子が一番先に書いた平仮名は

自分の名前でもなく

「あ」でもなく

鏡文字の「まま」でした。

大好きなママに文字を通して気持ちをつたえたい!

という強い思いがあったからだろうと思います。

 

さらに言うなれば

うちの子が一番最初に書いたアルファベットは

Aではなく

TOTOでした。

トイレに座りながら

「これは平仮名でもカタカナでもない。きっと英語だ!」

と発見し

嬉しくて教えてくれたに違いありません。

(紙に書かれた時思わず笑ってしまいました)

 

その子ども自身のタイミングを待たずに

良かれとおもって環境を提供することは

「将来役に立つことの押し売り」

子どもにとったら大きなお世話そのもの。

 

役に立つことばかりとらわれてしまうと

役に立てないと自分で感じでしまったとき、

どうなってしまうのでしょう。

役に立つ自分も、役に立たない自分も

自分は自分。

と、ありのままの自分を受け入れられた方が

楽に生きれるのではないかと思うのです。

 

大人に立ってから

これはやっておいた方が役に立つ

これは知っておいた方が自分のため

というのは、

大人になってから自分で気が付いたことであり

それを子どもが同じように思うかどうか

今必要と感じているかどうかは

その子それぞれ。

 

子どもは親の所有物ではありません。

子どもは未来を生きているのではありません。

今の子ども時代を大切に

今の自分自身を大切にできる子に

どれだけできるか

が、親の役目ではないのだろうかと私は思います。

 

大人はどうしても有心にとらわれてしまいがち。

悲しいかな

立場、期待、煩悩や利害に左右される場合が

多くなってきてしまいます。

 

子どもたちはそんなこと関係なく

無邪気に、真っ直ぐに、自分の興味のある方へ

一直線!!!

それにちゃちゃをいれず

見守れるような心の広い母になりたいものです。