子どもに「早く」を求める必要性はあるのか

大人は時間に追われていることが常であるため

子どもに対して「早く」という言葉を

かけてしまいがちである。

しかし、早くすることは

子どもにとってほとんどメリットのないことだと私は考える。


うちの子は、学校の身支度に30分ほど時間を費やす。

ランドセルの中身、給食の持ち物、その日に着ていく服に至るまで1人で準備をする。

ランドセルの中身は授業で出しやすいように教科書の順番を考えたり

鉛筆を削ったり

献立に合わせて、箸セットにプラスしてスプーンを準備したり。

(もちろん、箸箱に箸を入れるところからスタート)

というものの、一年生の時に、私の方で箸を入れてセットしておいたのだが

いつか、箸を入れるのを私が忘れてしまい

職員室に割り箸を借りにいったことがあったらしい。

そのとき太郎は、私を攻めなかったが

私自身に1つの疑問が浮上した。

「なぜ、自分で使うものを私が用意するのであろう。」

その日から、箸箱は開いた状態で食器棚に片付け、箸を太郎自ら入れることにした。

すると、私が準備していたころには

使わなかった箸を用意するようになった。


「セット(付属)の箸は滑るから使いにくいんだよね。」


なるほど。たしかに附属の箸はプラスチック製で、滑り止めもついていない。

実際に使っている人ではないと、その不便さには気づかない。


自分で準備すれば、このように朝から頭をフル回転使うことになる。


そして、考えるにはそれなりに時間がかかる。


これがもしも、親が全て用意して

子どもはランドセルに入れるだけであったら

何も考えることもなく

持ち物に対し、責任もなく、自覚もなく、ただただ、与えられたものを受け入れるだけな子になるのだろう。


もちろん、子どもなので、寄り道もする。

その日のフキンがポケモンだとしたら、

一通りポケモンの名前を言ってから弁当袋に入れたり

鉛筆、一本一本背比べして

短い順に筆箱にしまったり

ティッシュを引き出しから全て出して、

どれにしようかな、天の神様の言う通りなのなのな、をしたり。


時間がなければ、腹立つ行動も

たっぷりとした時間の中では、そんな寄り道さえも可能となる。

しかも、大人にとったらやるべきことから逸れていることかもしれないが、子どもにとっては、絶対に今しなくてはならないことだったりするのだ。


そのせいもあり、朝の支度に1時間かかることもある。

動き出すまでにぼーっとすることもある。

その時に、私は決まって心の中で

「考えている。今、我が子は考えている。」

と、心の中でつぶやく。

そうすると次第にイライラも収まり

「そうだ、この子は今、頭を使っているのだ。」

と、考え方が変わっていく。


そして、考えて(集中して)いる間

決して声をかけず、考えに集中できる環境を作る。

邪魔にならないように

親も集中して環境を整える。

音を出さないように。

声をかけないように。


その毎日のルーティンのおかげか

うちの子の集中力は半端ない。

一度そのモードになれば、1時間、2時間はざらで集中する。

遊びも、勉強も、全集中。

自主勉強のしすぎで、ペンだこができるほど。

鉄棒のしすぎで、手のひらがマメだらけになるほど。


勉強もこれやりなさい、あれやりなさいは言いません。

プリントでペケもらったところだけ、一緒に復習したり

自分の好きなタイミングで好きな科目を好きなだけ勉強したり。


小学生の頃から学習塾に通っている子もいるだろう。

たしかに与えられた課題に対して向き合う姿勢は、培われるかもしれない。

だが、自ら課題をみつけ、答えのない問題を解く力が身につくとは考え難い。


自分のことを自分で考えて、行動できるようになってほしい。

自分で自分のすることを決める。

自分の行動に責任を持つ。

そのために親ができることは、考える時間をたんと用意すること。

考えることのできる環境を整えてあげること。


子どもは手助けなんてしなくても

伸びていく力を持っている。