ソーシャルスキルは相互的でなければならない〜特別支援級を設けるということ〜

ソーシャルスキルは本来相互的なもの。

しかし、特別支援級は

片一方のスキルのみの向上を求める。


こんな話がある。

生まれながらに発音が不明瞭な男の子が

特別支援級でトレーニングに励んでいた。

指導員はこの子のため、と思い

厳しく指導にあたる。

その子はその言葉の授業がとても嫌だった。

大学生になり

積極的に周りに話しかけ

コミュニケーションを取ろうとする。

発音こそ不明瞭ではあるが

周りの友達は一生懸命

彼の伝えたいことを汲み取ろうとし

彼も懸命に伝えようとすることで

コミュニケーション能力が格段に伸びていった。


ここで特別支援級の指導員と

大学で出会った友達との違いに焦点を当ててみる。

まず、友達の場合、

彼の言葉に耳を傾け

伝えようとしていることを

わかろうとする姿勢がある。

図に表すと


話す

↓↑

聞く


の相互の関係が生まれている。

その一方で、特別支援級の指導者の場合

正しい発音に近づけようと

必死に指導するがために

その子の伝えようとしている気持ちに耳を向けず

言葉だけを聞き取っている。

図に表すと


話す

聞く


の一方通行だ。

たとえば「りんご」と発音する場合

指導員は「りんご」の発音に近づけようと

なんども練習させる。

ここでは

彼が「りんご」と発しているのを

わかっているのが前提のため

きちんと発音できていない

それでは伝わらないとみなし

何度も何度も訓練させる。

けれども彼の側からしてみれば

懸命に「りんご」と伝えている。


果たしてこれは本当にこの子のためなのであろうか。


そう考えると

支援級で伸ばす能力も必要だが

発達特性を持った子と関わる側のスキルの向上も

必要となってくる。

通常学級で受け入れ

子どもたちだけでなく、教師たちも

多種多様な特性を持った人と関わる機会を

奪ってはいけない。


しかしながら

通常級での生活が負担になったり

パニックになったりするのであれば

短時間のみにするとか

少人数クラスから始めるなど

その子にあった支援はもちろん必要である。

私が言いたいのは

クラスを完全に分け

互いに関わる機会をゼロにするのはいかがなものか。

と、いうことである。

「この子はこういうことが苦手。」

とか

「この子にはこういう言い方だと伝わらないけどこっちの言い方だと伝わる。」

とか

考えるきっかけにもなるし

互いのコミュニケーション能力の向上につながる。

机上の道徳の授業よりも

よっぽど役に立つ内容である。


インクルーシブ保育・教育のあり方を

もっともっと考えていきたい。