直すべきは自分の心

感染者急増に伴いさまざまな場面で限界を通り越している。

受け入れられる病院はほとんどなく

保健所の対応に関しては手が回らず

救急車の要請も難しい。

人間弱っている時には誰かを頼りたいし、頼らざるを得ないこともあるが、普段からそれなりに自分を守ることをすべきとも考える。

いつ感染してもおかしくない状況。

自分が感染して、動けなくなったら…家から出られなくなったら…備えとして食料等の備蓄等は普段からできるわけで。

「保健所から物資が届いたのは3日後でした。」

「電話連絡がなく不安です。」

一人なら尚のこと不安だろう。

どうしていいかわからないだろう。

でも、だからといって他者を責めるのは違うのではないだろうか。

もはや手が回らないところもまできてるのだ。

自分を助けるのは最後は自分しかいないのである。


ここに日本のおもてなし精神のマイナスポイントが浮き彫りになったように思う。

「黙っていればやってくれる。」

「やってくれて当たり前。」

だからこそ、クレームが絶えない。

マスクが品薄になった時にも、店員を責めるニュースが後を絶たなかった。

責めたところでなんの解決にもならず、マスクが手に入らないのであれば、自分で作ることや高額でもなんでもネットなどを利用して手に入れるなど、他の方法を考えるべきである。


通学路にトラックが突っ込む事故があった。

同じように危ない通学路がたくさんあるようだが、さまざまな理由から早急な改善が難しい。

うちの子の通学路も同じく、狭い上に車の往来が激しい。

グリーンベルトや白線の要求、時間帯による一方通行など、さまざまな要求を役所にしているが、なかなか受け入れられず数年が経つ。

前までは「こんなに対応が遅くて何かあったらどうするんだ!」と思っていた。

しかし、そこに引っ越してきたのは後から来た私たちであり、本来畑ばかりの場所だったため、通学路に適しているわけがないのが現実。

にもかかわらず、後から来たものが子どもの安全を目的に我が物顔で不満を訴える。

親ならば当然の行為かもしれないが、訴えている当人の私は何もしていないのである。

役所側が改善に乗り出すのが当たり前だと思っているし、それを待っているだけである。

本当に危ないと思っているのなら、本当に子どもの安全を考えているのなら、学校へ送り迎えをすればいい。

仕事の都合で毎日時間を作るのが難しいのであれば、近所の人に声をかけて分担制にしてもらうとかいくらでも方法はある。

にも関わらず、やはり、やってもらうのを待つ自分がいる。


新学期が始まり、道路の改善が難しいからなのか誘導員が毎朝立ってくれるようになった。

「そーゆー対応になったんだ。ありがたいな。」とは、思うものの、直接お礼を言うこともなく数日が過ぎていく。

自分ができること、沢山あるはずなのになにもせず、必然的に他者の援助を求める。

文句は言うが、お礼は言わない。

なんとも嫌な奴である。