かけっこから見えてくる視点~競わせることに意味はありますか~

 

昨日は朝から憂鬱気味な太郎。

「どうしたの?」

と声をかけたいのをぐっとこらえ

彼女からの発信を待っていた。

朝食のおにぎりを食べながら

「今日かけっこがあるんだよね。やだな。」

なるほど、それでしたか。


太郎は私に似てお世辞にも足が速いとは言えない。

むしろ遅い方である。

「わかる。ママもやだったわー。競争する意味ってなんなんだろうね。」

と意気投合。

その後も些細な言葉を交わし

テレビを見たり、

朝学習をすることで気がまぎれ

家を出るころには

気持ちを切り替えることができているようでした。

 

そして帰宅後。

「やっぱりビリだったー。」

と、しょぼぼーんんとしていたので

「ママと一緒じゃーん。仲間なかま~。」

と明るく受け入れていたら

「50メートル11秒だった。」

って言うものだから

「え。ママ5年生の時12秒か13秒だったよ。」

って言ったら言葉を失う太郎。

そのなんとも言えない表情のまたかわいいこと(笑)

 

「一生懸命走ってるのに知らない子が、太郎おそ。って言ってきた。」

って嘆いてるから

「なんてやつ。そんなやつママが鼻くそつけてやる!」

って言ったらケラケラ笑う太郎。

「でもさーその子あなたの名前知ってるのね?」

って言ったら

「言われてみれば。俺は知らねぇけどね、あんなやつ。」

ですって。

さすがギャングエイジ。

キレッキレです(笑)

 

「〇〇は太郎がんばれー!って応援してくれた。先生も応援してくれればいいのに。」

って言うものだから

「先生は何してたの?」

って聞いてみたら

記録係が間違えないように

きちんとしたタイムを記録しているか

記録係の方ばかりみてた、とのこと。

 

なるほど、

その子のタイム、

間違えるわけにはいかないものね。

 

と思いつつ、

同じかけっこでも

3つの異なる視点が共存していることに気づく私。

 

①誰が速くて誰が遅いのかということに重きを置き失礼な発言をした同級生

→全体でものを見ている視点

 

②順位がどうであろうと太郎自身を認め、応援する仲の良い友達

→太郎を個人として見ている視点

 

③その子の頑張りではなく一人ひとり数字化している教師

→一人ひとりをタイムという名の数字だけで見ている視点

 

見るポイントは人それぞれ自由だけれど

私は②の視点でものを見たいなと思いました。

 

学校の先生というのは職業的に

個人というよりも

数字化して見てしまうことに

慣れてしまっているんでしょうか。

テストの点数しかり、通知表しかり。

かけっこであれば

その子自身がどんな表情で

どういう風に頑張っていたか、

思い出せるのかな。

そして一生懸命取り組んでいる級友に向かって

声をかけたり反応したりするクラスの様子、

見えているのかな。

 

そもそもかけっこって、

何のためにやるんでしょうね。

もしもその子のタイムが知りたいのであれば

遅い子が自分は遅いという劣等感を感じないよう

一人ずつ走ればいい話であって。

大人になった今でも

競わされて

順位をつけられて

自分は足が遅いという自覚を

植え付けられたという印象しか残っていません。

未だにあのときの嫌な気持ち、思い出します。

 

ヨーロッパの方の学校のかけっこは

長距離(といってもトラック1周なのかな?)で

途中で「もうやめる。」と

子どもが申請すればやめてもいいんですって。

自分が走れる距離を走れるペースで走る。

走りきることも、途中でやめることも、

その子自身に委ねられてる。

素晴らしいなって思いました。

本来そうあるべきですよね。

日本の

「嫌なことはみんな同じ。みんな我慢してるんだから自分だけずるはできない。」

っていうの

そろそろ本当にやめた方がいい気がします。


あとは、このかけっこのあとに

足の速い子が

足の遅い子に

早く走るコツを教えてあげるとかだったら

このかけっこには意味があると思うんですよね。

ただ走って順位つけて終わりだけじゃなくて。

アドバイスしたことによって

タイムが縮んだり

フォームが前よりも綺麗になったり

良いところが一つでも増えれば万々歳。

このかけっこから学べること、あると思うんです。

 

今回のかけっこから太郎自身が学んだことは

・足の遅い友達の気持ち

・人を傷つける言葉を自分は言いたくない

・走っている人のことをきちんと見て全力で応援する

だったようです。


先生は、

子どもたちから

何を学ばせてもらったかな。